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『フランシス・クリック:遺伝暗号を発見した男』

マット・リドレー 著、田村浩二 訳 (勁草書房)

 

訳者あとがき

 

 私は1999年にアメリカのスクリプス研究所に留学しましたが、すぐ隣のソーク研究所にフランシス・クリックがいました。幸いにも、クリックにお目にかかる機会にも恵まれました。それまで、DNAの二重らせんモデル提唱者の一人という漠然とした印象しかありませんでしたが、実在のクリックを前にし、発言や行動を目の当たりにするにつれ、私は、彼の科学に対する真摯な姿勢に強く惹かれていきました。一方で、彼は愛車のメルセデスベンツに「ATGC」というナンバープレートをつけ、研究室のドアには「ソーク研究所 フランシス・クリック」と日本語で書かれたネームプレートを掲げるような茶目っ気ももちあわせた人物でした(下記の写真参照)。

 2004年7月、クリック逝去のニュースを受けたその日、留学先の研究室の友人たちとクリックについて語りあったことが昨日のことのように思いだされます。二重らせんモデルの後も、遺伝暗号の発見に果たした重要な貢献はもとより、脳科学に転向し、新しい概念を生みだしてきたクリックは、本書の著者マット・リドレーも書くように、ガリレオ、ダーウィン、アインシュタインと並び称される天才であって、彼なしに今日の分子生物学の隆盛はありえなかったでしょう。

 2016年のクリック生誕100周年を前に、生誕から一世紀を超えないこのタイミングで、本書“Francis Crick: Discoverer of the Genetic Code” (Atlas Books; 1st edition, 2006) を翻訳する機会をいただき、大変光栄に思っています。私自身、生前のクリックから多大な影響を受けましたが、本書を訳し進めると、クリックについての新たな発見もありました。単なる伝記の枠を超え、クリックの生涯を通して、科学という知の営みの尊さを多くの人に届けられれば幸いです。

 ジェームズ・ワトソンの『二重らせん』(江上不二夫・中村桂子訳、講談社)や『二重螺旋 完全版』(青木薫訳、新潮社)、また本書にも出てくるクリック自身の著書をはじめ、分子生物学の創成については、数多くの書籍が出版されています。こうした著作の中で、マット・リドレーによる本書は、鋭い筆致で稀代の生命科学者フランシス・クリックの人生をコンパクトに描いているのが特徴でしょう。この分量の中に、クリックの人生をここまで濃密に書きえたのは、リドレーの才能があってこそです。『ゲノムが語る23の物語』(中村桂子・斉藤隆央訳、紀伊國屋書店)や『赤の女王』(長谷川眞理子訳、早川書房)、『繁栄』(大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之訳、早川書房)などの科学啓蒙書で有名なマット・リドレーが、あえてクリックの伝記を描いているのも、科学者としてのクリックの偉大さを十分に認識しているからだと思います。動物学の分野で博士号をもつリドレー自身の科学への眼差しは深く、クリックの生涯の瞬間瞬間を見事に記述しています。また本書には、本文以外にわずか二つの図しか加えられていません。「DNAの二重らせんモデル」と「遺伝暗号表」ですが、この二つこそ、クリックが残した最大の遺産であり、分子生物学創設の極印として、いつまでも輝きを放ち続けるでしょう。きわめてシンプルな構成の中にも、リドレーのメッセージが響きわたっている気がします。さらに本書は、2007年にアメリカ科学史学会から“Watson Davis and Helen Miles Davis Prize”を受賞しているように、広く一般の読者や学生向けの秀逸な科学史の著作であるとも言えるでしょう。

 科学自体の歴史を見れば明らかなように、科学は、本来は何かの役に立つということを超えて存在しており、知を愛する営みそのものが、人類共通の文化を形成してきています。クリックは、間違いなく、そのような態度で科学に対峙していました。ソーク研究所での式典の際に、息子のマイケルも語っているように、クリックは「有名になることも、裕福になることも、また、人気者になることも欲しなかった」のです。クリックは、まさに「生涯一科学者」を貫き、命が尽きる寸前まで、科学に身を捧げました。

 私がクリックと直接お会いしたのは、彼がすでに80歳を超えた後でしたが、遺伝暗号研究者の端くれとして、クリックという存在そのものに圧倒されてしまいました。クリックは「ワトソン・クリック」とセットで認識されていることも多く、一方、ワトソンはベストセラーになった『二重らせん』でも有名ですが、あのおもしろおかしく書かれたDNA二重らせん発見の顛末を、クリックが少なからず不快に感じていたことにも垣間みられるように、彼は科学者としての人生をひたむきに歩み続けることを選んだのでしょう。

 フランシス・クリックの孫のキンドラ・クリックさんは、アメリカ・オレゴン州ポートランドでアーティストとして活躍されています。本書には現在の彼女を形作るきっかけとなるような話も描かれていますが、彼女の作風はまさにフランシス・クリックを思わせます。今回の日本語版のために、キンドラさんは序文を書いてくださいました。また、彼女から本書に関するいくつかの情報と貴重なお写真もいただきました。どうもありがとうございました。カバーに使用した写真も彼女からいただいたものであり、ソーク研究所のオフィスでのクリックです。最後に、本書を翻訳するにあたり、翻訳の素人の私に対し辛抱強くアドバイスをくださり、編集をしてくださった勁草書房の鈴木クニエさんに心から感謝申しあげます。彼女の深いご助力なしに、本書の日本語版の刊行はありえませんでした。

 

2015年6月

田村 浩二  

 

フランシス・クリック生誕100年記念論文 (田村浩二)

(インド科学アカデミーによるツイート)


The Genetic Code: Francis Crick's Legacy and Beyond

(フランシス・クリック特集号、Life Journal)

(Welcome to the Tamura Lab)



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