『クリック・ワトソン・DNA』訳者あとがき 田村浩二

『クリック・ワトソン・DNA:DNA二重らせん構造発見への階梯』

ポール・ストラザーン 著、田村浩二 訳 (一灯舎)

 



新型コロナの変異型が騒ぎになっている今だからこそ、DNAの仕組みと発見の経緯をふりかえるべきかもしれない。小冊子で、ものすごくわかりやすい。

ーー『日本経済新聞竹内 薫 氏(サイエンス作家)




訳者あとがき

 

 1953年のクリックワトソンによるDNAの二重らせんモデルの発見を契機に、分子生物学という学問が確立され、大腸菌からヒトに至るまで、地球上の生物は、基本的に同じ作用機序のもとに動いていることが解明されてきました。その後のこの分野の発展は言うに及ばず、2003年にはヒトゲノムがすべて解読され、さらに、iPS細胞が作製されるなど、今日、分子生物学は、人間の存在と尊厳にまで影響を与えるに至っています。

 「遺伝子組み換え技術」は1970年代はじめに開発されました。そして、科学者たちは、遺伝子組み換えが生み出すものが制御不能になる危険性を避けるために、1975年のアシロマ会議で、何を規制すべきかを議論しました。近年、「ゲノム編集技術」により、遺伝情報をはるかに効率的に書き換えることが可能になりました。遺伝子組み換え技術では、意図した箇所での組み換えを起こすためには非常に多くの回数の実験操作を行う必要がありましたが、ゲノム編集では、その回数は劇的に少なくなります。操作の効率が大幅に向上することから、農業や漁業における品種改良(ゲノム編集食品)や医療における医薬品の開発において、急速な進展がみられることが期待できます。その一方で、2018年には、中国の研究グループが受精卵に対してゲノム編集技術を適用し、双子を誕生させたという報告もありました。また、2045年には人工知能(AI)の能力が人類を超えるというシンギュラリティ問題も議論されています。今後、こうした不確実性を内在した容易に答えの得られない状況において、生命の源であるDNA発見の歴史をしっかりと理解した上で、逆説的ではありますが、自らの限度を超えない、ある種の慎み深さを築き上げることが必要になってくるのではないかと思います。本書がそのための一助となれば幸いです。

 ポール・ストラザーンはイギリスの作家で、「90分でわかる哲学者」シリーズや「ビッグ・アイデア」シリーズで有名です。本書“Crick, Watson & DNA”は「ビッグ・アイデア」シリーズの一冊です。「DNAの二重らせん構造」とセットで登場するのは、一般的に「ワトソン・クリック」だと思いますが(「ワトソン・クリック」という、ネイチャー誌での論文著者名の順番は、コイン投げで決めたらしい)、本書の原書のタイトルは“Crick, Watson & DNA”であり、邦訳のタイトルもこれに倣って「クリック・ワトソン・DNA」にしました。なぜ「ワトソン・クリック」ではなく「クリック・ワトソン」なのかを原著者のストラザーンに尋ねたことがあります。彼曰く、「アルファベット順ということもあるが、イギリスやアメリカでは、二人のパートナーシップについては、「ワトソン・クリック」よりは「クリック・ワトソン」のように理解されているからだ」ということでした。確かに、「クリック・ワトソン」は切っても切れない二人組ではありますが、DNAの二重らせん構造発見後の二人の人生を顧みれば、やはりクリックあってのワトソンなのかもしれません。また、2015年にニコール・キッドマン主演で上演されたアンナ・ジーグラー作の戯曲である「フォトグラフ51」が、2018年には日本でも上演され(板谷由夏 主演)、これは、DNAの二重らせん構造発見に関わるストーリーが今も人々の興味を引き続けていることの現れではないかという気もします。本書には、この戯曲の主役ロザリンド・フランクリンの話も簡潔に描かれています。ワトソン自身は、後年、「もしフランクリンが同僚たちともっとうまくつき合うことができていれば、二重らせんは「フランクリン構造」と呼ばれていただろう」と述べていますが、この言葉も、二重らせん発見の経緯を象徴的に表していると思います。

 今回の日本語版のために、原著者のストラザーンは、親切にも緒言(「日本語版によせて」)を書いてくださいました。彼自身はロンドンの大英図書館で研究を続けてきましたが、十年前には荒れ地だった図書館に隣接した一画には、今は「フランシス・クリック研究所」が建っています。こうした不思議な縁を、ストラザーンは私に教えてくれました。

 最後に、本書の翻訳版の出版にあたり、編集をしてくださった一灯舎の野崎洋さんに感謝します。

 

2019年6月

田村 浩二  

 

 

訳者あとがき 補遺

 

 2019年6月に、原著者からの言葉を含む本書の訳出の作業が完了し、その後、原書にはない図の追加や目次・奥付等の作成、また、カバーの選定などの作業をしているうちに、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による感染症(COVID-19)の世界的な拡大という未曾有の困難に、我が国も見舞われました。今現在も、答えの見えないこの感染症に、国民が一丸となって立ち向かっています。この新型コロナウイルスのゲノム本体はRNAですが、その配列情報に基づいて、 遺伝情報が発現する過程の根底にある概念は、DNAゲノムからの発現と共通性があります。

 湯水のように溢れかえる不確かな情報の中にいて、健全な科学的な視点をもち、正しく、かつ、慎み深く判断し、冷静に恐れる態度こそ、今後、生きていかなければならないであろう「ウィズコロナ」「アフターコロナ」の時代にも、強く求められるでしょう。その意味でも、遺伝物質の本体であるDNAの発見の歴史を正しく知っていることは重要であり、原書の出版から20年以上たった今日でも、本書の存在意義は大きいのではないかと思います。

 

2020年6月

田村 浩二  




日本経済新聞・目利きが選ぶ3冊 (サイエンス作家 : 竹内 薫 氏)


一灯舎 『クリック・ワトソン・DNA』 のページ


東京理科大学・田村浩二 研究室



フランシス・クリック生誕100年記念論文 (田村浩二)

(インド科学アカデミーによるツイート)


The Genetic Code: Francis Crick's Legacy and Beyond

(フランシス・クリック特集号、Life Journal)

(Welcome to the Tamura Lab)



《京都でのフランシス・クリック》 のページ


勁草書房 『フランシス・クリック』 のページ


『フランシス・クリック:遺伝暗号を発見した男』 のページ


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